作家、演出家、前川知大の鈍ら(ナマクラ)な日々。時々切れ味の良い日も。かなり不定期更新。
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[小説] 「散歩する侵略者」 メディアファクトリーより発売中 [連載] ■週刊モーニング(不定期連載) 「リヴィングストン」 漫画:片岡人生 原作:前川知大
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前川知大          (まえかわともひろ)

  • Author:前川知大          (まえかわともひろ)
  • 海の生き物とキノコと豆、乾物が好きです。F1と料理が好きです。UMAや地獄の関係者も好きです。漬物だけは勘弁してください。
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2009.02.22 Sun
さようならダニエル
実家が干しいもを送ってくれて、それが大変に美味しい。
買うと決して安いものではないので、ありがたいかぎりである。
いつもはスライスしたものだが、新モノ出るころには「丸」を送ってあげると以前言われた。
「丸」とは文字通りスライス前の丸いままの状態だという。丸鶏のマルと同じだ。
サツマイモの収穫後すぐに仕込み、新モノが出回るのはちょうど一月二月になる。
そして先月、大量の丸が我が家にやってきた。
いくらかは稽古場に持っていき、役者やスタッフに振舞う。好評だ。
それでもかなりの量があり、我が家の冷凍庫の半分を占拠してしまった。
丸はスライスに比べ当然ボリュームがあり、お茶請けにうかつにも数個食べようものなら、「これからお食事会だというのに、丸が、丸がまだ腹に、かなりの存在感だ!」という状態になってしまうのである。
学習すればよいのだが、美味しいのでついつい食べてしまうのだ。
「マル」と呼ぶことも気に入っている。

コレ↓が我が家のマルだ。先ほど冷凍庫をのぞいて見たが、まだまだ居る。あれ?増えてないか、と思うこともある。
maru.jpg


先日、我が家の小さな庭で家人が大声をあげた。
「庭にマルを打ち捨てたのは誰だ! 食べ物を粗末にする奴は呪われる!」
確かにそんな奴は呪われるべきだ、が私は身に覚えがない。
干しいもを更に干す、という実験を誰かがしているのだろうか。だとしたら人んちの庭でやらないでほしい。結果は気になるが自宅でやっていただきたい。
「どれ」
と私は庭に出てミイラ化したマルを調べてみる。
「ん?」
至近距離に寄る。
「我が家のマルにしては大きいようだが…」
→干しいもじゃなかった。

塀の影でよく見えなかったが、10センチほどのカエルだった。
次の日の燃えるゴミで出そうと思い庭に投げていたバックパックをベッドにして、冬眠明けの二度寝をかましているヒキガエルであった。

ヒキガエルは二月ごろ、春の季語でもある。冬眠から出てきたヒキガエルは食事も取らずに生まれた池に戻り、つがう相手を求めて鳴きはじめる。夏のイメージもあるかと思うが、あっちは雨蛙。
春の訪れを告げる使者が我が家の庭に現れたのは、なんとも風情があり気分が良い。
うつらうつらしてるヒキガエルを指でグリグリしてみると、ひんやりして気持ちいい。だがヒキガエルは鼓膜から毒液を出すので注意が必要だ。毒液を出すまで追い詰めてはいけない。無理やり起こされたら私だって毒液でも吐きたくなる。気持ちは分かる。
でも二度寝はよくないんじゃないか。ダニエルには行くところがあるんだろう?
ダニエルとはそのヒキガエルの名前である。私がすぐに付けた。名前を付けると急に愛着が湧いてくるから不思議である。私は名前を付けるのが好きだ。
さてどうしたものか。
調べてみると、ヒキガエルは夜行性ということだ。ということは昨晩我が家の庭までやってきて休憩し、今晩また旅立つということだろうか。なるほど、ここは旅の宿というわけか。ゆっくり休むがよい。
太陽が高くなり、ダニエルに直射日光が注ぐ。ダニエルは真夏の海岸でうたた寝から覚めたように、「あっつ、日焼けするわマジで」という顔でのそのそと動きだし日陰に移動した。
ふむ。
私は客人をもてなすため、2ℓのペットボトルを半分にカットし、古新聞を巻き、中には千切った新聞を敷き、ダニエル用の仮設ベッドを製造した。

私はダニエルを持ち上げ、ベッドに誘導する。まったく抵抗する気配はない。私のことを信用しきっているように思える。かわいい奴だ。
しばらくしてベッドを見ると、ダニエルは自ら奥深くに入り、気持ち良さげに惰眠を貪っている。
ほう。ベッドが気入ったようだな。私が作ったベッドを気に入ってくれ、私はすっかりダニエルが好きになってしまった。
いや、あまり感情移入しては駄目だな。奴は旅の途中、一期一会だ。今夜キミは旅立つ、分かっている、受け入れなくてはならない。このもてなしに見返りを求めては駄目なのだ。ウチのペットになってくれ、と引き止めたとしても、彼は毒液で応えるだけだろう。分かっている。
毒液はかぶれる。

日も暮れた18時半、ベッドの中をのぞいてみる。まだ寝ている。夜行性っていうけど、何時ごろから活動するんだろう。夜行性の連中にとって、18時半はまだ早朝みたいなものなのだろうか。まぁでも、チェックアウトは23時頃がいいだろう。あまり早いと、小学生の純粋無垢な暴力にさらされる可能性もあるし、車にペシャンコにされることも考えられる。
ずっと見ていると出て行きづらいだろうし、別れも辛くなる。もう見るのはやめよう。
「ずっとここに居ても、いいんだぜ」
と言ってみる。無駄なことだ。ダニエルは人語を解さない。

果たして翌朝、ダニエルは旅立っていた。
私は起きてすぐダニエルのベッドを確認した。いない。
私は千切った新聞紙をガサガサとまさぐる。いない。
私は新聞紙をぐっと握りしめ、ダニエルに思いをはせる。新聞紙はところどころニチャニチャした粘液が付着しており、私はすぐに石鹸で手を洗った。唾液か糞尿か毒液か、分からない。ダニエルは好きだが、別問題だ。
ダニエルはどこまで進んだだろう。この辺に池などあるのだろうか。

仮設ベッドは、その日のうちに家人によって容赦なく撤去されていた。悲しくなった。

私は家人と干しいものマルをオーブントースターで焼き、ほうじ茶を入れていただく。
「見なよ。マルは焼くと所々色が変わって、ますますダニエルにそっくりじゃないか。これからマルのことをダニエルと呼ぶことにしないか」
と私が提案すると、家人は干しいもをほお張りながら、
「ぜったいイヤ」
と目も合わせずに答えた。
「…そうか。ま、そうだよな、正直、グロいからな」
と言ったあと、そのグロいという言葉を使ったことにひどく罪悪感を感じ、心の中でダニエルに謝った。

今も我が家の冷凍庫の中には、ダニエルとその思い出が凍りついている。


↓、ダニエル
daniel.jpg








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2009.02.08 Sun
餃子の皮と孤独
「あそこの餃子、皮が薄くて美味しいんだよね」
と家人が言うので、
「そこの餃子が美味いかどうかは食べてないので判断しかねるが、そこの餃子が美味い理由が果たして皮の薄さによるものかは、疑わしいと思うよ」
と答えた。
「パリっとして、中はジューシーで、美味しいよ。それに皮にこだわりがあるようなことをメニューに書いてあったし、雑誌でも取り上げられたみたい」
とまた言うので、
「僕は餃子ウォッチャーではないので確かなことは言えないが、世の中には餃子の皮は厚いより薄いほうが、上級であるような、そんな風潮があるよね。でもそれは事実かな。「こだわり感」を出すために、あえて皮の薄さをアピールしてるだけじゃないかな。大した特徴でもないのに、それをあえて「ウリ」にして「当店はこだわっています」という、その手の張り紙を店内に張ってある店に、僕はどうも如何わしいものを感じるんだ。事実その「こだわり感」がある種の調味料になって、言われなければどうってことない特徴を、美味しさの理由のように、感じてしまうんだ僕らは。でも僕は騙されないぞ。そもそも雑誌に取り上げられたことがその店の味を保障するように思ってるんだとしたら、浅はかじゃないかい」
と、食べてもいない餃子を批判したものだから、餃子の皮ごときで喧嘩になってしまった。

私は、餃子の皮は、モチモチと厚いほうが好みである。だから執拗に薄皮を標榜する(してないのかもしれないが)、その見たこともない餃子屋を非難したくなったのかもしれない。
大学生の頃、学校の近くにあった中華屋の餃子が未だに最高であると信じている。モチモチ皮でニンニクのきいた餃子だった。そこは自分の店の餃子にうんちくを付けたりせず、メニューの端っこにただ、餃子…250円、と控えめに記しているだけである。

「ところでその、キミがありがたがっている薄皮の餃子はいくらするんだい?」
「600円」
「一皿?」
「うん。5個で」

冗談じゃない。皮が薄いうえに600円。一つ120円!ふざけるな!どんな秘密があるってんだ、そんな薄皮ビリビリに破いてやる。
何?鉄鍋で焼いている?それがどうした?確かに鉄鍋で調理することによって皮のパリパリ感を最大限引き出すことができるかもしれないし、鉄鍋は効率よく不足しがちな鉄分を補給することもできる。鉄鍋のあの質感も私は大好きだ。だが、駄目だ、とても納得できない。いくら美味かったとしても、限界があるだろう。餃子の、料理としてもポテンシャルはそれほど高くないはずだ。
いや、サイズが大きいのかもしれない。普通の大きさの倍あるのかもしれない。個数で判断はできない。でも待てよ、大きいのだとしたら、薄皮じゃあ強度を保てないだろう。昆虫の大きさの限界は、外骨格だからだ。脊椎動物のように内側から自重を支える背骨がない昆虫は、外側の殻で身体を支えている。もし10メートルの昆虫がいたとしても、殻がその重さに耐えられずつぶれてしまう。餃子がつぶれることはないにしても、巨大な薄皮餃子は調理段階で扱うことが困難になる脆さを抱えてしまうはずだ。

「その餃子、まさか骨があるのでは?」
と聞こうと思ったがやめた。それはもはや餃子ではない。思い過ごしだ。
「大きさは? 大きいのなら勘弁してやらないでもない」
「普通。それに食べてもないアナタに勘弁してもらう筋合いもない」
と家人は言った。
確かにその通りだ。

「キミから得た情報を元にその餃子を判断するに、悪いけど絶対に食べたくないね。はっきり言っていい気になってる感じがするよ。薄皮だかなんだかしらないが、増長しているよ。鼻持ちならない。餃子は中華屋のサイドメニューで意外な実力を発揮することはあっても、餃子専門店なんかで主役の座にあぐらをかくべきじゃない。餃子専門店なんてこの世からなくなってしまえばいいんだ」

「もう二度とアナタと餃子を食べることはないでしょう」
と家人は言った。
…そうか。まあ、いいさ。ふん。
一人で食べるさ。別に餃子が嫌いなわけじゃない。むしろ大好きだ。餃子の名誉のために繰り返すが、私は餃子が大好きだ。ポテンシャルがどうだと言ったのは、それは餃子というものが、誰が作ってもそこそこ美味しくできるものだからだ。どんな店でも家庭でも、素材を厳選してもしなくても、そこそこ美味しくできる餃子はそれゆえに飛びぬけて別次元の美味しさに変わることは稀だ。それゆえに愛されている。レースカーはセッティングが難しく、とても速いが壊れやすい。市販車はセッティング済みで大して速くはないが、壊れず長持ちする。餃子という料理はどう頑張っても市販車のポジションにあると思う。日本のカレーも同じだ。いいじゃないかそれで。

後日、私は例の餃子店の前を通りかかった。相変わらず雑誌のコピーなどが店頭に張り出してある。
「ふん。なにを喜んでいやがる」
と悪態を付きつつ通り過ぎようとすると、無数の張り紙の中に意外な文字を見つけた。

「厚皮もあります」

自信があるなら薄皮だけでいけばよろしい。根性無しが。多様なニーズに応えようというわけか。だったた最初からこだわり感なんて出すんじゃない。
と思いつつ、私は立ち止まる。銀杏の木の下で二分考えた私は、踵を返しその店のドアを引いた。
いらっしゃいませ!という元気のよい声と共に、笑顔が私の目に飛び込んできた。
その店は清潔で温かく、いい匂いがした。

薄皮と厚皮の餃子を交互にほお張りつつ、私は自分を愚かだと思った。
この餃子を一人で食べることしかできないなんて。





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